一乗公益・法道の会、法を伝える四つの階梯――清明なる生命の道へ

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一乗 · 8月 1, 2025
この喧騒と変化に満ちた時代において、修行とは、もはや山林に籠る者だけのものではありません。修行とは、人がこの俗世にあって原点に立ち返り、自らの内なる心を見つめ直すための一つの道筋です。それは特定の信仰のレッテルや、煩瑣な […]

この喧騒と変化に満ちた時代において、修行とは、もはや山林に籠る者だけのものではありません。修行とは、人がこの俗世にあって原点に立ち返り、自らの内なる心を見つめ直すための一つの道筋です。それは特定の信仰のレッテルや、煩瑣な儀式、あるいは他人の目から見た修行の深さとは関わりのないものです。

私ども一乗公益・法道の会が伝える法の次第は、仏家の「観心断妄」(心を観じ、妄念を断つ)の智慧を受け継ぎ、道家の「清浄自然」(清らかで、あるがままであること)の根脈をも汲んでいます。修行には段階があり、法には秩序があります。私たちは、修行者が辿る一般的な道のりを、入門、進修、化行、帰真という四つの階梯にまとめました。

一つ一つの階梯は、生命がその本源へと回帰する旅路であり、一つ一つの教えは、教義の注入ではなく、行者が自らを照らし出す手助けとなるものです。

一、入門の法:「善」「徳」を修め、「荷を降ろし」「手放す」こと――心身の束縛からの解放

修行の始まりは、欲望から身を引き、執着から解き放たれることです。初めてこの法門に触れる方々にお伝えするのは、「究極の真理」や「解脱への近道」ではなく、いわば「引き算」の生活調整です。

この段階でお伝えすることは、以下の点に重きを置きます。

  • 不必要な欲望を手放すよう導くこと。
  • 精神的な内耗や、感情的な執着を減らすこと。
  • 自然な生活のリズムを取り戻すこと。
  • 善き念いを持ち、正しき徳を実践すること。

この段階の教えは、感受性に強く訴えかける色彩を帯びやすく、言葉は柔らかく、自然に身を委ねることを促し、内なる温かさや帰属感を強調します。しかし、それは「情緒的な伝法」という落とし穴に陥りやすくもあります。例えば、特定の師を過度に神格化したり、「場の空気」や「感覚」を無批判に信じたり、甚だしきは修行を一種の慰めや逃避と見なしてしまうことです。

私たちはこのような状態を「蒸籠の法」と呼びます。湯気は盛んに立ち上るものの、それは真の火ではありません。感覚は満たされますが、本質に深く至ることは難しいのです。この法は、あくまで入り口を示すものであり、深い修行へと導くには十分ではありません。

二、進修の法:「凡」より「聖」へ――自己修練の主体的な過程の始まり

行者が内面の整理をある程度終え、一定の定力と思辨力を備え始めたなら、凡夫から聖者の道へと入る段階に進むことができます。これは修行の中核であり、また最も長く留まりやすい段階でもあります。

この時点での教えの要点は、以下の通りです。

  • 内なる戒律を確立し、何を取り、何を捨てるべきかを明確にすること。
  • 定力を養い、念(おもい)の生滅を観照すること。
  • 心の在り方の変容を促し、自らが向かうべき道を確立すること。
  • 彼岸にある解脱を求め、智慧の証得を渇望すること。

これは「向上」を目指す修行の道であり、修練を積み、段階を上り、自らの力で心を救うことを強調します。多くの修行者にとって、この段階は明確な方向性を与え、精進を続けるための原動力となるでしょう。

しかし、この段階は「聖者になることへの執着」や「悟りの位階への渇望」をも生み出しがちです。「私が修行している」「私には悟れる」「私は道を得たい」という我執を超えられなければ、進修という名の下に、形を変えた自己中心主義に陥ってしまいます。

三、化行の法:「聖」より「凡」へ――道は世を離れず、修行は人を離れず

もし行者が、修行の道における「自利の心」を次第に手放し、心が何物にも囚われない境地に至ることができれば、自ずと利他の願いが生まれてきます。この時に伝えられる法は、もはや己を修めるためだけの道ではなく、法を以て世に入り、修行の成果を以て社会に還元する生命の道です。

この段階の教えには、次のような特徴があります。

  • 個人の修行の成果を、具体的な行動へと転換すること。
  • 内なる智慧を、家庭、教育、職場、社会といった現実の領域で実践すること。
  • 形あるこの身を以て、無私の道を行うこと。
  • 自らを修行者として標榜せず、人々に真の利益をもたらすことを本分とすること。

これは「聖者の還俗」ともいえる境地です。しかし、それは俗世への堕落ではなく、光明を抱いて塵世に入り、人の世の姿を借りて、天地自然の徳を行うことです。仏門ではこれを「菩薩道」と呼び、道家では「道を行じ、世に在る」と称します。この段階の師は、理想の境地を語らず、現実をいかに引き受けるかを説きます。

これこそが修行の社会的な表現であり、文明への深遠なる参与なのです。

四、帰真の法:「凡聖は皆な妄」と伝え、正道は即ち今此処に在り

修行がその終局に近づくとき、凡と聖の境界もまた消解します。全ての「道筋」「段階」「法門」といったもの自体が、人々を導くための方便に過ぎなかったと悟ります。真の覚醒とは、「法」そのものを超越することに他なりません。

この時の教えには、言葉もなければ、沈黙もありません。導きもなければ、表現もありません。なぜなら、

  • 求める道は、この心を離れては存在しない。
  • 修めるべき果は、未来にあるのではない。
  • 凡夫や聖者という呼び名は、全て仮の名である。
  • 解脱とは、既に今この瞬間にある。

これは虚無主義でも、修行を否定するものでもありません。修行の本質への真の体得、すなわち、修行という名に執着せず、覚醒という姿に執着せず、本来の姿に立ち返り、万物をあるがままに照らし見ることなのです。

この段階において、師は特定の言葉や定まった姿を持ちません。その行いや佇まいそのものが、道となります。自らが「悟りを開いた」と宣言する必要も、「いかに修すべきか」を教える必要もありません。ただ、その静けさ、智慧、そして真実の示現そのものとなるのです。

終わりに:真の伝法とは、無我の伝法である

法の伝承は、言葉がいかに高尚であるかではなく、心がいかに誠実であるかにかかっています。儀式がいかに荘厳であるかではなく、人の心にいかに寄り添えるかにかかっているのです。

真の伝法とは、人を別の世界に連れて行くことではなく、人々がこの世界を新たに見つめ直すのを手伝うことです。

迷信を生み出さず、神秘を煽らず、自らの修行を誇示することもなく――ただ、ありのままに一つの生き方を、一つの生命の澄み切り方を伝えるのです。

一乗公益・法道の会が伝える法は、教条でもなければ、標準的な答えでもありません。それは一つの誘いであり、一筋の灯火であり、修行者たちが互いに灯し合う心の回路なのです。

修行の道を歩む一人ひとりが、自らの今此処において、本来の真実を照らし出し、正しき道を行じられんことを。

――一乗公益・法道の会 敬白

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