文明が今日まで至る道のりにおける最大の進歩とは、単なるテクノロジーの高度化でも、都市の繁栄でもなく、人間がようやく「道具」としてではなく「目的」として扱われ始めた、という点にあります。個人が、被治者、被管理者という立場から、思想と発言力を持ち、責任を担う「社会の市民」へと歩みを進める時、私たちは新たな文明の段階へと入るのです。
この段階において、「市民」とはもはや単なる「法的な身分」ではありません。それは、人格における一つの理想であり、制度における一つの立ち位置であり、社会における一つの存在様式です。では、成熟した社会の市民として、私たちは一体何を所有し、何を担うべきなのでしょうか。
本稿では、権力、責任、そして保障こそが、社会の市民という完全な姿を構成する三つの「文明の剣」であると提案します。それらは、権利の確認であると同時に、義務への呼びかけでもあります。制度からの恩恵であると同時に、人格の鍛錬でもあるのです。
このうちの一つでも欠ければ、市民としての役割は不完全となり、その社会の文明もまた、成立しないのです。
一、権力:承認された存在であること、それが現代人にとっての「我、ここに在り」
長く続いた歴史の中で、権力は常に少数の人々の手にある特権でした。多数の人々は、運命を決められ、管理され、犠牲となり、時には記憶されることさえありませんでした。近代的な国家制度が確立されて初めて、「一人ひとりが、自らの運命の決定に参加する権力を持つ」ということが、文明の最低ラインとして、徐々に承認されるようになったのです。
市民の権力は、施しではなく、天賦のものである
言論、選挙、監督、罷免、結社、抗議……これらは国家からの恩恵ではなく、社会契約における基本的な条件です。ある社会が、市民に対して法律への服従、義務の遂行、秩序の遵守を要求するのであれば、まずその市民に対して、これらのルールを制定する過程に参加する権力を与えなければなりません。
権力は、市民を、運命の傍観者ではなく、社会の主人とします。
真の「現代人」とは、まず第一に、「意見を表明する権利を持ち、不正に抵抗でき、未来を決定する資格を持つ」人間のことなのです。
権力は、幸福の前提となる保障である
権力がなければ、自由は抑圧される可能性があります。
権力がなければ、尊厳は踏みにじられる可能性があります。
権力がなければ、幸福は「正義」によってではなく、「恩恵」に頼るしかありません。
権力は、幸福を守る第一の防衛線であり、制度がすべての人に「自らの生き方を主張する」能力を与えるものです。
したがって、一人の市民として、私たちは意識しなければなりません。「私の権力は、私の存在の証明である」と。それを守ることは、自分自身のためだけでなく、次世代の人々が、明るい社会の中で生きられるようにするためでもあるのです。

二、責任:自由の背後にある、社会に対する自己からの応答
文明は、「私が何を欲しいか」ということだけを土台に築くことはできません。「私が何をすべきか」という土台が、より一層重要です。
権力が、もし責任を伴わなければ、それはわがままと濫用へと変わります。自由が、もし結果を引き受けなければ、それは虚無と破壊へと滑り落ちていきます。
市民社会において、責任とは、外部から強制されるものではなく、内なる成熟から生まれるものなのです。
市民の責任とは、共同体に対する積極的な応答である
納税、兵役、遵法、公共の事柄への関心、民主主義への参加、他者の権利の尊重、弱者への配慮……これらは単なる制度の条文ではなく、「私は、ただの私ではない。私は、社会の一部である」という価値判断の現れです。誰も部外者ではありません。一人ひとりの不作為が、社会を瓦解させる始まりとなるのです。
高度に複雑で多様な現代社会において、責任は、秩序を維持するための基礎であるだけでなく、互いの信頼を成り立たせるための「見えざる契約」でもあります。
責任とは、自由へと至るもう一つの道である
一部の人々は、自由を「やりたいことを何でもやること」と誤解していますが、自らの選択に責任を負う意志のある者だけが、真の自由を持つに値するということを忘れています。社会における自由とは、「管理からの逃避」ではなく、「ルールの背後にある善意を理解すること」であり、「境界線の中で自己を主張すること」なのです。
市民の責任は、まさに自由の裏返しです。それは束縛ではなく、自律という名の光であり、私たちが愛する人々や、信じる事柄のために、自ら進んで引き受ける重みなのです。
三、保障:制度の温かみ、それは文明の最低ライン
もし権力と責任が、個人と集団の間の道徳的な契約を体現するものであるとすれば、保障とは、制度が市民に対して行う最も基本的な約束であり、保護です。それは、一人ひとりが「どん底に落ちないように支える手」、すなわちセーフティネットなのです。
市民への保障は、近代国家が存在する正当性の根拠である
人は、病によって尊厳を失うべきではありません。貧困によって希望を失うべきではありません。生まれによって未来を奪われるべきではありません。教育、医療、年金、社会保障、雇用の機会、司法の公正……これらは「福祉」という名の施しではなく、制度が人間に対して払うべき、基本的な敬意です。
保障のない市民は、「投票権」は持っていても、「実質的な存在」を確保できていないかもしれません。「権利」は持っていても、「尊厳ある生活」を送ることができないかもしれません。
保障は、人の能力を弱めるものではありません。それは、一人ひとりが再び立ち上がり、自らの夢を追いかける力を得るための機会を与えるものなのです。
保障は、制度の道徳であり、幸福の基礎である
健全な社会においては、貧しさや病によって絶望する人がいてはなりません。老いによって見捨てられる人がいてはなりません。被害に遭った後、訴える場所がない人がいてはなりません。
真の市民社会とは、たとえ特別な背景も、資源も、強力なコネクションも持たない、ごく普通の一人ひとりが、尊重される人生を送ることができる社会のことです。
この保障こそが、制度の良心であり、社会の温かみであり、文明の現れなのです。

四、三者の統一:市民という存在の立体的構成
権力、責任、保障は、相互に依存し、互いに抑制し合う、有機的な統一体です。
- 権力なき責任は、隷属です。
- 責任なき権力は、権力濫用です。
- 保障なき権力と責任は、絵に描いた餅(実体のないもの)です。
- 権力なき保障は、施しです。
- 責任なき保障は、依存です。
この三者が共に機能して初めて、真の市民としての人格と、現代社会の安定が実現されるのです。
これこそが近代国家の基本論理です。権力によって人々に誇りを与え、責任によって人々に自尊心を与え、保障によって人々に安心を与えるのです。
結語:個人に力を与え、社会を照らす
文明の偉大さとは、その強大さにあるのではありません。ごく普通の人々でさえ、光の当たる、温かい生活を送れるようにできるかどうか、という点にあるのです。
市民社会の理想とは、すなわち、 権力の中に、自らの声を取り戻し、 責任の中に、自らの尊厳を取り戻し、 保障の中に、自らの安全を取り戻すことです。
私たち一人ひとりは、この国の一員であるだけでなく、この時代の主人でもあります。私たちは、「否」と言う権利を持ち、「然り」と言う責任を担い、そして、風雨の中でも見捨てられないという、心の支えを持っているのです。
権力、責任、保障——市民が持つこの三つの剣は、現代社会が私たちに与えてくれた贈り物であるだけでなく、私たちが次世代へと手渡す、最高の遺産でもあるのです。
一乗公益は、すべての人が三つの剣を手に、光り輝く市民となることを、心から願っています。制度によって尊厳を支え、責任によって自由を守り、保障によって幸福を安らかに築かれますように。